2010年2月 1日

梁の歴史

502年、斉の宗族であった蕭衍(武帝)が、斉の和帝より禅譲を受けて建国した。創業当初の天監年間は、九品中正法の改定、梁律の頒布、租税の軽減等の政策によって治世は安定し、南朝の全盛期を生み出した。また自身が優れた文人でもあった武帝は、旧来の貴族の子弟が入る国子学以外に、寒門の子弟を対象とした教育施設として新たに五館を設置するなど学問を奨励したことによって、文化は大いに繁栄した。武帝の長男である皇太子蕭統(昭明太子)の『文選』、蕭統の死後皇太子となった蕭綱(後の簡文帝)らによる宮体詩を収録した『玉台新詠』は、この時期に編纂されている。しかし、50年近くに及ぶ治世の後半になると、捨身に代表される過度の仏教保護や経済政策の失敗によって財政状況が悪化し、さらに貴族層の実務忌避や台頭した寒門側近による専権が官吏の綱紀弛緩を招くなど、繁栄の影で社会不安が深刻化した。

548年、東魏の降将・侯景が反乱を起こし、首都建康を包囲した。各地に分封されていた諸王や宗室たちは、互いの利を見て牽制しあい、武帝の救援に積極的に動かなかったため、翌549年に建康は陥落。老齢の武帝は侯景によって監禁され、食事も満足に与えられずに衰弱死した。

侯景はその後、建康で皇帝に即位したが、552年に蕭繹に滅ぼされた。蕭繹は荒廃した建康を避け、自らの本拠地の江陵で即位した(元帝)。だが既に国内は元帝に従わない勢力が割拠し、領土の多くを北朝に奪われていた。このような状況下、554年に元帝は西魏の侵攻を受けて敗死した。西魏は襄陽にいた蕭詧(武帝の孫、昭明太子の子)を後梁の皇帝として擁立した(宣帝)。後梁は西魏とそれに代わった北周・隋の傀儡政権として、後主・蕭琮まで3代続いたが、587年に隋の文帝によって廃された。

一方、旧都建康を守備していた元帝配下の武将王僧弁・陳霸先は、元帝の子である敬帝を擁立する。後に陳霸先は王僧弁を殺し、557年に敬帝から禅譲を受けて陳を建国し、ここに梁は滅亡した。


『ウィキペディア(Wikipedia)』引用

梁は中国の南北朝時代に江南に存在した王朝です。

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