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2007年09月26日

シャルル・ド・ゴールについての知識を深めましょう

シャルル・ド・ゴールについての知識を深めましょう

シャルル・アンドレ・ジョゼフ・ピエール=マリ・ド・ゴール (Charles André Joseph Pierre-Marie de Gaulle) は、フランスの陸軍軍人、政治家で元大統領である。

■生い立ち
1890年11月20日に、イエズス会学院の校長(歴史科を教えていた)を務める父アンリの元、フランス北部の工業都市リールに生まれた。 ド・ゴールの家系は、下級貴族である。「ド・ゴール」と言う場合のゴールの前につく「ド」(ドイツ人の「フォン」と同じ)がそれを示しているが、ド・ゴール家の場合は名字の一部とみなされている。

ド・ゴールの曽祖父は、ルイ16世の法律顧問をしており、フランス革命時に、投獄されている。
父アンリは医学・理学・文学の3つの博士号をもつ碩学、熱心なカトリック教徒であったという。また、祖父ジュリアンも著名な歴史学者であったといい、ド・ゴールは幼い頃より歴史に興味をおぼえ、「フランスの名誉と伝統」に誇りを抱くようになったという。そして、ド・ゴールは、伝道師を目指していたものの、長身痩躯という立派な体格であった事から軍人の道を選んだ。


■軍歴

■陸軍士官学校時代
先に述べた祖父・父親のもとで愛国的かつ厳格な教育を受け地元の中学校を卒業後、1909年に、サンシール陸軍士官学校に入学した。ド・ゴールは、陸軍士官学校内では、「雄鶏」(フランスのシンボルの1つでもある)、「アスパラガス」そして「コネターブル(「大将軍」の意)」と呼ばれていたという。無論、全て体格に由来している。


■陸軍士官時代

アンリ・フィリップ・ペタン卒業後は、歩兵第33連隊に陸軍少尉として配属された。歩兵第33連隊はフィリップ・ペタン(のちのヴィシー政権の指導者)の連隊だった。

第一次世界大戦では大尉としてドイツ軍と戦い、1916年、大戦中最大の激戦地ヴェルダン戦で部隊を指揮した。ドイツ軍の砲撃で重傷を負い「気絶」したが、「戦死」と判断され、死体運搬車に乗せられた。しかし輸送途中に意識を取り戻し、事なきを得たという。

なお、戦死と聞かされたペタンは、「ド・ゴール大尉。中隊長をつとめ、その知性と徳性において知られた人物である。おそるべき砲撃によって大隊に夥しい損害を出し、中隊また八方から敵の攻撃をうけた状況下に、それが軍の光栄にかなう唯一の策と判断して兵をまとめ、突撃を敢行、白兵戦を展開した。混戦のうちに戦死。功績抜群……ペタン」という個人的な感謝状を作成したという。

また、捕虜生活も経験し、それは第1次世界大戦終結まで続いた。ド・ゴールは5回脱獄を図ったものの、大柄な体だったため5回とも失敗し、最も厳重な捕虜収容所であるインゴルシュタット城の牢獄「天女の宿」にて捕虜生活を経験した。ちなみにその牢獄には、後にロシア(ソ連)の赤軍元帥となり、スターリンによって粛清されたトゥハチェフスキーがいた。トゥハチェフスキーはド・ゴールに対し、「未来は我々のものだ、くよくよするな」と捕虜生活を慰めたという。


■ポーランド軍事顧問時代
第1次世界大戦終結後ド・ゴールは、ポーランドの軍事顧問となり、同国へ赴任した。当時、ポーランドは、革命ロシア赤軍の攻撃を受けており、同国首都ワルシャワに迫っていた。その時の赤軍司令官は、誰あろう、共に捕虜生活を過ごしたトゥハチェフスキーであった。ド・ゴールは、この戦で活躍し、「ポーランド軍少佐」の称号を得ると共に、ポーランド国から勲章も授与された。


■陸軍大学校時代
ポーランドから帰国後、サン・シール陸軍士官学校の軍事史担当教官として勤めたあと、1922年、フランス陸軍大学校に入学した。同学校では、「勤勉にして敏鋭、博学。しかし友人との折り合い悪く、性格的に円満を欠く」と評価をされている。また、陸軍大を卒業したものの、ド・ゴールは「わが道を行く」という主義を強く持っていたため、陸軍上官との折り合いが悪く、大尉から少佐への昇進に10年もかかってしまった。しかし、この間も後に敵となるペタンは、ド・ゴールをかわいがっていたという。

その後、ド・ゴールは、中東に1回赴任し、1932年には中佐となり、パリにあった軍事最高会議事務長に就任している。また、ペタンの計らいもあり、ド・ゴールは、陸軍大学校において「戦闘行為と指揮官」という特別講演も行った。この講演を文書に纏めたものが『剣の刃』である。ただ、この書は「フランス版『わが闘争』」あるいは「ド・ゴール版『わが闘争』」(ドイツのアドルフ・ヒトラーの『わが闘争』から)とも評されている。


■電撃作戦の推進
第一次世界大戦のヴェルダン戦の体験からド・ゴールは、これからの戦争は塹壕戦ではなく、機動力のある戦車や飛行機を駆使した機械化部隊による電撃作戦になることを論じ、いくつかの著書の中でそのことに言及した。

この見解は、ペタンらフランス軍の主流派には受け入れられず、その後皮肉にも同様の発想をしていたグデーリアンのいたドイツ軍が積極的に採用している(国家指導者がヒトラーであったことも大きいと思われる)。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、ドイツ軍は防衛方針を堅持したフランス軍が国境に用意した巨大要塞「マジノ線」を機動力のある装甲部隊で迂回して進軍し、フランス軍はわずか1か月間の戦いでドイツ軍の電撃作戦により敗北を喫した。


■「自由フランス」時代

チュニジアにて指揮を執るド・ゴール(1943年)
カサブランカ会談にてチャーチル、ルーズヴェルト、ジローとともに(1943年)ド・ゴールは、第二次世界大戦における諸戦の戦功により、フランス軍史上最年少の将軍となり、1940年6月にはエドワール・ダラディエの辞任により新たに首相に就任したポール・レイノー率いる新内閣の国防次官兼陸軍次官に任命され、イギリス軍の協力を得るためロンドンに飛んだ。

同年6月15日に首都のパリが陥落すると、イギリスへ亡命し、ロンドンのBBC放送を通じて対独抗戦の継続と中立政権ではあるものの親独的な「ヴィシー政権」への抵抗をフランス国民に呼びかけた。イギリス議会や閣僚は事を荒立てることを恐れ、それを中止させようとしたが、イギリス首相ウィンストン・チャーチルの指示によって放送は強行された。

また、亡命後直ちにロンドンに「自由フランス国民委員会」を結成し、自ら「自由フランス」軍を指揮してアルジェリア、チュニジアなどのフランスの植民地を中心とした北アフリカ戦線で戦い、対独抗戦を指導した。しかし、当初フランス軍の多くは中立を維持するかヴィシー政権に帰属し、ノルマンディー上陸までにド・ゴールの元に集まったフランス軍勢力はほんの一握りであった。

また、その独裁的かつ強権的な姿勢から、チャーチルやアメリカ合衆国大統領のフランクリン・D・ルーズヴェルトと衝突することが多く、特にルーズヴェルトはあからさまにド・ゴールを嫌っていたという。

その後1944年6月の連合軍によるヨーロッパ大陸への再上陸作戦であるノルマンディー上陸作戦が成功すると、祖国に戻って連合軍ともに戦い、同年8月25日にパリが解放された。ド・ゴールは翌26日に、自由フランス軍を率いてパリに入城、エトワール凱旋門(いわゆる、「凱旋門」の正式名称である)からノートルダム大聖堂まで凱旋パレードを行い、シャンゼリゼ大通りを埋め尽くしたパリ市民から熱烈な喝采を浴びた。[1]


■臨時政府首相

■強権的指導者
フランス解放後、フランス国民議会は満場一致でド・ゴールを「フランス共和国臨時政府」の首相に選出した。ド・ゴールは首相になると、民衆の声望を背景に、他の指導者・政党の意見を無視することが多くなり、とりわけ社会党・共産党から独裁的との批判を受けた。

1946年1月に、ド・ゴールは政策上の一致が困難であるとの理由で、突如首相を辞任した。この辞任の真意は、政党政治と議会主義に対する不満にあったといわれている。ド・ゴールは次第に、優れた指導者が国民の支持を背景に強力な政治を行うことが、政争に明け暮れる政党政治(フランスの共和制の下では多党乱立の状況になることが多かった)よりも国民のためになるという信念を持ち始めていた。彼は、この信念から1947年、「フランス国民連合」(略称RPF)を結成した。


■国営化推進
また、フランス解放後の1945年に大手自動車会社のルノーを国営化したほか、エールフランス航空など多くの期間企業を国営化した。このように、国家の復興を推進するためもあり軍需、インフラ関連の大企業の国営化を積極的に推し進めるとともに、公共投資にも力を入れた。この政策は後にド・ゴールが大統領になってからも継続された。


■第5共和制大統領

■アルジェリア独立承認

1964年1958年5月、アルジェリアのフランス植民者が、アルジェリアの独立運動に対抗するため、軍部と結託して本国政府に反旗を翻した。この緊急事態に、政府は軍部を抑えることのできる人物としてド・ゴールに出馬を要請し、ド・ゴールを首相に任命した。

ド・ゴールは、これを念願実現の好機として、直ちに、大統領に強権を与え議会の力を抑制する新憲法を立案し、これを国民投票に付した。同年9月に行われた国民投票で圧倒的な賛成を得て新憲法が制定され、フランス第五共和政が成立、ド・ゴールはその初代大統領に就任した。ド・ゴールは、以後1969年に退陣するまでの11年間、強権的とも言われた政権運営をもってフランスの内外政策を強力に推進することとなる。

この11年間において初めてフランスの政局は安定し、その巧みな経済政策によってフランスは高度経済成長を遂げ、外交の面でもフランスの地位は急速に高まった。しかしド・ゴールは民族自決の動きを理解しており、アルジェリアの独立は必至と判断していた(「当初は完全独立ではない緩やかな連邦制も模索したが考え直した」と後に回想している)。結局アルジェリア領有の継続を主張する右翼(OAS)のテロによる反対を押し切って、1962年、独立を承認した(→「ジャッカルの日」)。


■独自路線

ド・ゴールとアメリカのリチャード・ニクソン大統領。後列中心にいるのはヘンリー・キッシンジャーまた、東西両陣営の間で冷戦が続く中、ド・ゴールはアメリカとソ連の超大国を中心とする両陣営とは別の(フランスを中心とすることが濃厚に想定される)「第三の極」を作るべきだという意識を持っていた。

そこで西ドイツとは和解・協力を進める反面、アメリカ主導の北大西洋条約機構(NATO)や国際連合には批判的な態度を取り、NATO本部をフランスから撤退させた上にNATOそのものからも脱退してしまう。それと並行して国連分担金の支払いを停止し、アメリカと近い立場を取るイギリスの欧州経済共同体(EEC)への加盟拒否も表明した。

また、「フランスの安全保障が、アメリカの核の傘に依存せずに済む」、との理屈で、フランス独自の核兵器の開発を推進し、1960年2月にはサハラ砂漠のレガーヌ実験場で原爆実験に成功しアメリカ、ソ連、イギリスに次ぐ核保有国となった。1964年にはイギリスを除く他の西側先進国では最も早く、共産主義政権下の中華人民共和国を承認した(なお、イギリスは隣接する植民地の香港を抱えていたため、西側諸国の中では例外的に、中華人民共和国をその建国直後に承認していた)。


■ 5月革命
世界的な学生運動の高まりと共に、左派的な発想から現代社会を「管理社会」として告発する機運が高まる。その中女子寮への侵入を禁止された男子大学生の抗議から1968年5月(5月革命)が勃発。フランス全土をストライキの嵐が襲い、ドゴールは危機に陥る。しかし彼は議会を解散し国民の意思を問うことを表明。それに呼応したドゴール支持の大規模なデモが行われ、「五月革命」は急速に力を失い、ドゴールは議会選挙でも圧勝し危機を乗り越える。

しかし翌1969年には、彼が国民投票に付した上院及び地方行政制度の改革案が否決され、あえてその必要がなかったにもかかわらずドゴールは辞任した。この改革案自体は議会を通過させることは不可能ではなかったにもかかわらず、ド・ゴールが側近達の反対を押し切って敢えて国民投票を行った真意は明らかではない。